中田英寿 伝説のサッカー選手の軌跡

みなさんは中田英寿というサッカー選手がどんな選手だったか知っているだろうか。1977年生まれの山梨県甲府市出身。日本のFIFAW杯3大会連続出場に貢献した元日本代表で、その活躍ぶりは今なお日本サッカー史において伝説として語り継がれている。そんな中田英寿を今回は改めて紹介していく。

高校時代〜ベルマーレ平塚

中田は小学3年生の時(8歳)でサッカーを始めた。キッカケとなったのはキャプテン翼。中学生の時には15歳以下日本代表に選ばれていた。韮崎高校に進学すると、全国高等サッカー選手権大会に出場。17歳だった頃のインタビューにて「どこにいっても、みんなから信頼されるように、あいつに回しておけば大丈夫じゃないかっていうような、そういう選手になりたい」と語っていた。

高校生離れした実力は既に認められていた。Jリーグに加盟する12クラブのうち11クラブからオファーを受け、最終的には1995年にベルマーレ平塚に加入した。高校でも成績も常に学年で10番以内。「大学に行くことも考えたが、大学は後からでも入れると思い、Jリーグを選んだ。」とのこと。当時からボールに触っていなくても周りの状況を判断し、ゴールまでのイメージが素早くつく、強い体幹を持ちぶつかられても容易く倒されないのが強みだった。

中田からNAKATAへ ペルージャ時代

フランスW杯では金髪に染めた。日本人選手の中での金髪は非常に目立つが、世界に注目されるために敢えて勝負に出た。その後JリーグからセリエAのペルージャに移籍。ジオディーヌやジダンを擁する強豪ユベントスとの初戦から2得点を獲得。惜しくも試合は敗れたが、辛口のイタリア紙が絶賛するなど世界最高峰のプロリーグで大きく名前を挙げた。高校生の頃からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしていたという中田。イタリアへ渡ってから2ヶ月後には通訳なしで会話ができるようになっていた。

ASローマ時代

ペルージャからセリエAの名門、メガクラブであるASローマに移籍。移籍金は当時の価格で13億円。日本人としては史上最高額だった。「ほぼ自分よりうまい選手しかいない状況でやったことがなかった。ローマほどレベルの高い選手がいたことは他では無かった、これは圧倒的に。」と語る中田。選手として試合に出るのが非常に難しい、だがこれだけの選手の中に身を置けるという喜びとの葛藤があったという。「これまでは自分の形でチームを染めていったが、ローマではローマの形があった。どのようにアジャストさせるかが時間がかかった」とのこと。敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。

パルマ時代

2001年、パルマに移籍。移籍金は当時アジア選手最高額の約33億円となった。パルマ時代で中田に求められていたものは、ボランチの役割。ディフェンスラインまでにも下がり、攻撃にあまり参加しなくなった。当時パルマはあまり調子が振るわず、リーグでは10位のポジションで終了。難しい年ではあったが、イタリア杯(コッパ・イタリア)にてチームを優勝に導いた。

ボローニャ時代

経営危機に直面したパルマを去った中田がセリエAで4チーム目に選んだのがペルージャ時代の恩師であるマッツォーネ監督率いるボローニャ。ボローニャは世界最古の総合大学があるなど、文化的にも非常に優れた街だ。在籍期間はわずか半年だったが、苦境に立たされているチームのセリエA残留に貢献した。中田によると、「マッツォーネ監督がいたから、来た」とのこと。

フィオレンティーナ・ボルトン時代

2004年に移籍したのは、セリエAでプレイする最後のチームとなったフィオレンティーナ。パルマやボローニャで過ごした3シーズンはボランチやサイドハーフなどを求められたが、フィオレンティーナでは本来のポジションで本来のパフォーマンスを発揮するチャンスのようにも思えた。しかし故障が長引いたこともあり、低調なプレーをファンに酷評された。

その後7年過ごしたイタリアを離れ、イングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズに移籍。2006年、29歳でドイツW杯をもって引退。理由は「サッカーを楽しめくなったから」。

引退後

2007年7月にモナコ居住権を取得した中田。国連のプログラムに協力しながら世界各地を周り、サッカーを通じた社会貢献活動を行った。近年では旅の連載やテレビ番組出演、全国から選びぬいた日本酒と厳選のレストランを堪能できるイベント「CRAFT SAKE WEEK」を毎年開催したり、工芸家と他ジャンルの専門家とを結びつけた商品開発のプロデュースなど、多角的に日本文化を発信している。

 

 

 

 

 

 

reference

 

・nest2018.jane.or.jp